柳田國男文学碑の横に善徳寺の由来書きが立ちました(写真をクリックすると拡大)。 全文転記します。
ーーーーーここからーーーーーーー 城端別院 善徳寺 昭和41年5月4日 南砺市指定 建造物 平成5年8月18日 富山県指定 建造物
文明三年(1471)本願寺八世蓮如は、越前吉崎より金沢を経て井波下向の際、加越国境の砂子坂(金沢市)に祖父 巧如の弟、周覚法印が布教した旧地を尋ね、その佛法有縁の地に道場を創建し、周覚の孫で、蓮如のはとこ、蓮真に附属させた。 その後 蓮真の子 実円が相続し、延徳元年(1489)までには越中山本の里に移り、本願寺九世実如より寺号善徳寺を免許され、加賀・越中・能登三ヶ国の惣禄(頭寺)に任ぜられた。 天文六年(1537)に福光へと転じたが、篤信の城ヶ鼻城主 荒木大膳の請をうけ、この地 城ヶ端の城郭に寺を建立したのが永禄二年(1559)で、天正元年(1537)の城ヶ端開町を遡ること十四年である。 その後、天正十三年(1585)には越中三郡は前田氏が領有し、それより一向宗徒に対する懐柔策として寺屋敷が安堵されるとともに、加賀藩における真宗東派寺院の触頭となり、越中での国法・寺法の頭寺として繁昌し、嘉永二年(1849)には加賀十三代藩主 前田斉泰の子、亮麿が十六代住職として入寺、明治四年には亮麿の妹、洽姫が十七代住職 勝心の室に縁辺相整い入輿した。 明治九年より真宗大谷派別院として現在に至っている。現在、市の指定建造物になっているのは、菊の間・台所門・高桑門・大式台・式台・大広間・大納言の間・竹の間・御殿・新御殿・御広敷・西の書院・北の書院・庫裏・対面所・廓龍庵(茶室)・経堂の17棟である。このほかに県の指定の建造物が、山門・本堂・太鼓楼・鐘楼の4棟である。今日に至り年月を経たもので建造物として重要なものである。 富山県教育委員会 南砺市教育委員会 ーーーーーここまでーーーーーーー
時流に沿って英語表記もあります。 《英文》 Johanabetsuin Zentokuji Temple Designated as cultural property in 1966 by the city and 1993 by the prefecture.
In 1471, Rennyo journeyed from Echizen Yoshizaki through Kanazawa to reach Inami. While in Kanazawa, he visited Sunagozaka along the Kaetsu border, where his grandfather Gyonyo's younger brother Shukaku did missionary work. There Rennyo built a dojo, which he appointed to Renshin, his second cousin and Gyonyo's grandson. The dojo was later inherited by Renshin's son Jitsuen. In 1489, the temple was moved to Etchu Yamamoto and received the name of Zentokuji Temple. It was designated as the main temple of Kaga, Etchu, and Noto by Jitsunyo, the 9th head priest of Honganji Temple. Zentokuji Temple was moved again to Fukumitsu in 1537, and once more to the Jogahana castle grounds at the request of the deeply religious Lord Araki Daizen in 1559, 14 years before the town of Jogahana was established in 1573.
Toyama Prefectural Board of Education Nanto Municipal Board of Education
読みやすいようにこちらで改行しましたが、まぁ〜とにかく切れ目のない長い文章で…。 ひょっとしたら英文のほうが、判り易いかもしれませんね(^^;
きょうは紺無地ウールに黒ハイネック、黒緑の角帯に黒斑の袴、グレーのニットマフラーに黒手甲、チャコールグレーのタビックスです。
(ブルーの文字をクリックすると関連ページへリンクします)
|
2019年4月2日(火)
No.5758
|
|