刺繍で多様な文様をあらわしたもので、現在では着物のほか、のれん、ハンドバッグ、テーブルセンター、名刺入れなど、さまざまなものが作られている。
津軽小巾がいつ頃から始まったか明らかではないが、もともと小巾(小衣)とは農民の短い労働着であった。 津軽地方は本州の最北部に位置しているため、冬は長く、深い雪に閉ざされ、しばしば冷害に教われてきた。 それだけに南国の綿が育たず、他地方から買い入れなければならなかった。 木綿は温かく、丈夫で長持ちするし、染料の染めつきもよい布地として貴重だったのである。
しかし、江戸時代には非常に高価で運賃もかかることから、津軽藩では藩財政の流出を防ぐために農民の木綿着用をかたく禁じていた。 その代わりに麻を栽培させ、手で織らせて衣服とさせた。 だが麻で衣類を作るのも大変に手間のかかることであった。 そのうえ麻は切れやすく、傷つきやすい。
当初、小巾刺は繕うことから始まった。しかし、いずれ繕わなければならないのなら、最初から刺繍をして補強したほうがよい。 こうして手刺しが行われるようになったが、初め刺糸は苧麻で作った。
藍で紺色に染めた麻の小巾に、染めていない苧麻糸を刺していくと、そこには色の違いから自然に模様が生まれた。 その刺し方は「ただ刺」(地刺)で、普通の運針の連続である。
津軽小巾の美しさは紺色の地と刺糸の白という爽やかなコントラストにあるといってよい。 これは多彩にするほど豊かではなかったこともあるが、さらに文化五年(1808)、津軽藩が藩令(農家倹約分限令)によって、華美なものや紅差しを入れたものなどを禁じた結果、自然に紺と白の対比の美を守り続けることになったからだ。 そうした一方、藩では寛政三年(1791)から綿花を買い入れ、木綿織物を織ることを奨励した。 これが弘前手織の起源とされるが、こうしたことから一部では刺糸に綿糸を使うようになった。 綿糸は麻糸に比べてはるかに刺しやすく、模様刺しへと開花するきっかけになったのである。
天明八年(1788)には比良野文蔵が生活図録ともいうべき『奥民図彙』を著わしているが、そのなかに小巾刺が「サシコギヌ」として紹介されている。 それによると背と肩に模様のある常躰、全面を刺した惣ざし、左の袖口から背を通して右の袖口まで大きな模様を刺した伊達さし、の三種類に区別し、刺小巾を着た農婦を描く。 小衣に刺したから「刺子」と呼ばれ、さらに模様が刺されて「刺小衣」と称されるようになったらしい。
刺しやすい綿糸を用いるようになって、単なる地刺のほか、布の経糸や緯糸に沿って刺したり、斜めに刺したりして自由に幾何模様を生み出していった。 菱形模様が生まれたのは江戸後期のことだが、明治になって農民も自由に綿糸を使うようになると、津軽小巾は驚くほど多様な模様を作り出し、急速に発展した。 たとえば豆こ、アミノフシ、模様刺し、花繋ぎ、田の畔刺し、四つ豆こなど、およそ三百種類の模様がある。 お互いに見せ合い、出来ばえを競い合ったのだろうが、こうして技術も向上していった。
また地域によって特徴ある刺し方をしており、たとえば弘前以東の南津軽地方では東小巾といい、肩に縞をあしらわない。 弘前以西は西小巾と称し、肩に大縞があり、その下に細い二段縞を配する。 また弘前の北方、着た津軽の金木地方は三縞小巾と呼び、胸に三本仕切縞がある。
津軽小巾は明治末期から大正期にかけて途絶したが、昭和になり樺島直道(1898〜1974)の尽力によって復活し、現在は弘前市を中心に盛んに作られている。 |
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