城端絹(じょうはなぎぬ) 富山県南砺市城端で産する絹織物

 もともと城端のあたり一帯、砺波地方は織物が盛んな土地柄であった。 城端でいつ頃から織物が始まったのか明らかではないが、一説によれば天正年間(1573〜1592)頃からだという。 絹は五箇山や川上郷の繭や生糸を用いた。

 当初は節絹と呼ばれる粗い紬だったが、元禄年間(1688〜1704)頃から質が向上し、「絹屋」を屋号とする家も生まれた。 元禄六年(1693)の記録によれば、城端の戸数は689 軒だが、そのうち375軒が絹に関係していた。

 江戸時代には加賀藩の庇護のもと「加賀絹」の名で、小松絹と一緒に売られた。 当初上方へ送られていたが、後に江戸に送られるようになり、商人が端唄を習い帰ったことが城端曳山祭独特の庵唄の原型となる。

 明治初年の城端町の戸数は約1000戸でその九割に手織機があり、チンカラ機と名付けられた居座機で、節絹あるいは小川絹と名付けられる薄絹を織っていた。

 日清戦争後には効率の良いバッタン機が導入され生産量が増えた。 加えて明治39年には五泉より技術者を招き、羽二重と絽織も始まった。

 明治末期には動力織機による操業が始まり、絹業が飛躍的に発展する。 大正年間の絹産額は富山県全体の40%を占め、第二次世界大戦前は35%、戦後は40%を占めていた。

 城端では絽や紗のほか、羽二重、さらに撚糸機の導入により縮緬・壁織など多種多様な絹織物を生産。 絽と紗で全国生産量の30%を占めたこともあった。 そのほか「釣地」と称する伊勢型紙の紗張り用の紗を織っていた。

 現在、絹織物は松井機業場と吉村絹織の二社で織られている。 国の有形文化財に登録されている じょうはな織館にて絹織り体験や見学ができる。

 

 
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「染織事典 中江克己編 泰流社刊」と「城端町史」からの抜粋です

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